
島﨑伊守は漫画家だ。
漫画家の癖に漫画が描けない。
その理由はただ一つだけ、とんでもない飽き性なのだった。
××××
「ニャ――――――――――――――――――――――――――――」
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああ⁉」
視界が黒で塗りつぶされる。ふにっ、と柔らかい感触が顔に広がった。…………。「ニャー」と呻き声をあげながら俺の顔の上に乗っかったままのそれをゆっくりつまんで持ち上げる。 もふもふの黒い塊こと、伊守が突然買ってきた黒いアメリカンショートヘアは子猫らしく「みー」と鳴いた。
「お前、餌貰ってないのんか……」
俺の問いに答える代わりに、子猫はつぶらな瞳で見つめ返してくる。こういう生き物にはとことん弱い俺だった。なんというか、「放っておかれると生きていけません」系の存在に弱いのだ。
黒猫を抱えて玄関を抜けて、リビングに出る。俺が住んでいるアパートの何倍も広い。リビングには伊守専用のソファと、テーブル(一人暮らしなのに椅子が数脚あるのは泊まりがけで作業をするアシスタントの為のものだ)、お洒落なデザインの対面キッチン、とても一人暮らしの家においてあるものとは思えないほど大きな冷蔵庫――何もかもが俺の持ち物とは違う。俺の家にあるのは、せいぜい敷きっぱなしの布団くらいだ。
「伊守ー、いないんか?」
俺は声を張り上げる。
アシスタントの若者たちもいなかった。――いや、俺だってまだ若者だ。三十代に突入してまだ二年だというのに、最近の俺はなんだか枯れ始めている。おっさん化し始めているのだ。まだ可愛い妻も娘もいないのに、老けるには早すぎる。この間、白髪を見つけて絶句した俺である。
リビングの奥の部屋に入ると、黒猫がぴょん、と俺の腕の中から飛び出した。そのまま部屋の片隅にある毛布の塊の所まで走っていく。
俺は、容赦なく近づいてその塊を蹴った。
「起きろ。原稿はちゃんと終わったのか」
「んん……終わってるよー。一昨日伊野尾ちゃんが帰った後、ちゃんと皆仕事してくれたもん。今回はちゃちゃっとデータで送っちゃったよ。あのね、伊野尾ちゃん、あと五分寝かせて……」
毛布が蠢く。これは摩訶不思議な喋る毛布だと云えば誰かに高く売れるだろうかと思ったが、そんな訳はないので頭を切り替える。
「あほか。五分どころかお前は一日中寝とるだろうが!」
勢いよく毛布を毟り取った。
中で寝ていたのは、細身の男だった。俺はこいつの実年齢を知っているので三十二歳にしか見えないが、恐らくそれを知らない相手が見れば二十代の半ば以下だと思うのだろう。それくらいに幼いというか、世間慣れしていないあどけない顔立ちをしている。最近はこういうのをベビーフェイスとか云うのだろうが、俺から言わせてもらえば苦労を知らない子供だ。
「伊野尾ちゃん、あと五分だってばー。カップラーメン待てないひとかな?」
寝ぼけ眼を擦って、身体を起こす。
穏やかそうな瞳が俺を捉えた。短い髪の毛が寝癖のようにはねている。
「三分待てずにいつも違うものを先に食べ始めるのは伊守の方だろうが……」
「えー、そうだっけ。まぁ、いいや。島﨑伊守、覚醒しましたー」
目が覚めたらしい伊守に子猫が縋りついていく。一応、猫の方は飼い主が誰かは分かっているようだが、伊守は子猫を獅子の親が子を谷底に落とすように突き放した。
「伊野尾ちゃん、あげる」
「猫をか⁉ いらんわ!」
「俺も別にいらないから」
儚げな笑顔を向けてくるが、言っていることは残酷極まりない。蟻を潰したりダンゴムシを焚き火に放り込んだりする子供のようだ。高校時代はこのフェミニンな――男に対してこの言葉を使うのは間違っているということは分かっているのだが、この表現がしっくりくるのだ――笑顔で何人もの女子生徒を骨抜きにしてきた島﨑伊守である。まぁ、根が飽き性なので一週間と持たずに別れてきたわけだが、それでなければこんなイケメンが三十二歳まで彼女なし独身を貫いているはずがない。
「飼い猫だろ、名前くらい付けろ、呼びにくくてかなわん」
「飼い猫じゃなくて、一緒に住んでいるだけなんだけど?」
首を傾げる伊守。
「それを飼ってるって云うんだ! お前、高校時代に同棲を咎められた時も同じようなこと言ってたな⁉」
「あれも、一緒に住んでただけなんだけど?」
「お前、いっぺん死ね……」
「死なないよ。死んだら連載できないじゃない。人気漫画家が連載に穴をあけるわけにはいかないからね」
××××
島﨑伊守が漫画家としてデビューしたのは三年前、伊守が二十九歳の時だ。
別に伊守は絵が好きだとか、特別上手かったわけではない。漫画は読んでいたが、描いたことは(俺が知る限りでは)なかったはずだ。それが、何が切っ掛けかは知らないが突然漫画を描き始めた。というか、漫画家になった。深夜、俺のアパートに電話をかけてきた伊守は全く困っていないような口調で「伊野尾ちゃん、トーンってどうやって塗るの?」と訊いてきたのだった。
それ以来、三年間伊守は漫画家として週刊少年ワープに連載をしている。しかも、アンケートの一位を取り続けるほどの人気作を。
しかし――書いているのは伊守ではない。半分くらい俺や、他のアシスタントだ。残りの半分は伊守を拾い上げてくれた担当編集者の志摩さんの努力でできていると言って過言ではない。伊守は、描くには描くが、速度が全くついてこない。連載とか無理なレベルだ。それに、すぐに飽きる。「トーン塗るの飽きた」だの「背景描くの飽きた」だの、挙句の果てにキャラやストーリーを考えるのにも飽きる。それでもお前は人気漫画家なのか?
××××
今日は打ち合わせがあったので、昼過ぎに伊守を引っ張ってマンションを出た。
打ち合わせは、伊守のマンションからほど近い駅前の喫茶店で行われる。担当の志摩さんは時間にきっちりした人ではないので、多少遅れても大丈夫だろう。
季節は春。出会いと別れの季節だ。四月を象徴する桜は、もう中旬に差し掛かって殆ど散り始めている。俺の子供の頃といえばこの時期は桜が満開だったというのに、最近だと桜の満開は三月の卒業式シーズンらしい。
桜並木を妙なテンポでひょこひょこと歩く伊守の後ろを黙って歩く。
急に、伊守が振り向いた。そのまま後ろ向きに歩くことは止めない。誰かにぶつかりそうで冷や冷やしたが、通行人の方から伊守を避けてくれていた。
「伊野尾ちゃん。桜の下には死体が埋まっているんだって」
ベタベタの事を言う。中二病の中学生だって今時そんなことは言わない。
「へぇ。で、それは一体誰の言葉なんだ?」
「金田一少年?」
「…………」
「あ、違った、コナンくんコナンくん」
「梶井基次郎だろ!」
某名探偵の孫や某小学生探偵がそんな事を言った日には、きっと犯人は探偵自身というオチなのだろうなと俺は思う。
「あははははは、伊野尾ちゃんは何でも知ってるなぁー」
「そりゃあ、まぁお前よりかはな」
俺は腕時計で時間を確認。
待ち合わせは午後の二時。現在はその五分ほど前だった。俺一人だと余裕で目的地に辿り着けるが、伊守を連れているとどこで何に時間を取られるか分からない。
呑気に歩く伊守を少し急かす。
「おい、ちょっと急ぐぞ。志摩さんも忙しいんだろ。そんなに何分も待たせられん」
「俺、急ぐの苦手なんだけどな。伊野尾ちゃんが先に走って行ってよ」
「そうしたらお前はいつまで待っても待ち合わせに来ないだろ。方向音痴の癖に」
「流石に自分が住んでる街の中では迷わないよー? あはははは、伊野尾ちゃん酷いなー」
へらへらと笑う。
嘘をつけ。お前、小学校時代に社会科の授業で地元を探索した時に思いっきり迷ったぞ。自分が迷っているという自覚があっても地図を確認することもなく直進する人間を信用できるほど俺はお人好しではない。
「急ぐぞ。急がないと志摩さんにまた奥さんののろけ話聞かされるだろ……」
伊守の担当編集である志摩さんは、去年結婚した。俺はまだ奥さん本人に会ったことはないし、多分一生会うことはないだろう。だが話だけならかなり聞いた。それくらい志摩さんの「嫁トーク」は打ち合わせの定番ネタとなっているのだ。
伊守は、一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐにまた笑顔になる。
「了解。じゃあちょっと急ごうか」
急ぐと云った伊守の足取りは、しかし一向に変わらなかった。
結局、待ち合わせ場所である喫茶店「春の嵐」に辿り着いたのは、約束の二時をかなり過ぎた頃だった。
大きな駅前の通りに面した喫茶店の中にいる客はまばらだ。俺はその中に志摩さんの姿を探す。編集というよりか、どこかのライブハウスに入り浸っているような風貌の志摩さんはまだ来ていないようだ。いくら時間にきっちりした人ではないとはいえ、三十分以上遅れた俺たちよりもなお遅いということは考えにくい。
近寄ってきた店員に、待ち合わせだということを告げてもう一度喫茶店の中を見渡す。やはり、志摩さんは来ていない。数年使い続けている画面の割れかけた携帯電話を見ても、連絡は入っていなかった。妙だ。
そう思っていると、伊守の携帯が鳴った。
最新型のiPhoneを取り出して、何故か困ったように俺を見る。
「伊野尾ちゃん、知らない番号だよー」
「いや、普通に出ろよ……」
「知らない人の電話には出ちゃいけないんだよ? 伊野尾ちゃん、誘拐されても知らないよ?」
三十歳を越えた大人の男を誘拐する奴はあまりいない。その事実を伊守に告げるより前に、伊守はiPhoneを俺に押し付けた。
「伊野尾ちゃん、なんとかしてよー」
「……しょうがない奴だな……」
覚悟を決めて俺は伊守から受け取ったiPhoneの画面をスライドして対応する。
「はい、もしもし」
『島﨑伊守先生の携帯電話で間違いないでしょうか?』
電話の向こうの相手は、かなり若い人物だった。志摩さんからなのではないかと思っていた俺は、少々面食らう。
『游談社の少年ワープ編集部、副島と申します。本日、志摩とそちらに向かう予定だったのですが出発が遅れておりまして……』
副島と名乗った相手は、丁寧な物腰で喫茶店に着くのはもう少しかかること、連絡が遅くなったことを詫びた。
電話越しだというのに、深々と頭を下げられている気分だった。不愉快になるような謝られ方ではない。どちらかというと頭を下げ慣れているというか、営業のサラリーマンみたいな印象だ。けれども、「申し訳ない」という気持ちは十分に伝わってくる。このまま俺が何も言わないと、相手が切腹でもしかねない雰囲気だったので俺は声を絞り出す。
「わかりました。えっと、じゃあ、待ってればいいんですね?」
『はい、申し訳ありません』
「いえいえ。お気をつけていらしてください」
時間にしてわずか数分の通話は、そうやって終わった。
編集部の、副島……副島、ねぇ……。俺はその名前を反芻する。編集部の人間の名前は何人か知っているが、聞いたことのない名前だなと思った。新入社員なのかもしれない。
伊守はいつの間にか、喫茶店の窓際の席に陣取っていた。俺が通話を終えたのを目視で確認して、ぶんぶんと手を振ってくる。右手がちぎれて飛んでいきそうだが、そんな事があっても島﨑伊守の連載が休載になることはない。何故なら、描いているのはこいつではないのだから。
「誰からの電話だった?」
「編集部の、副島さんという人だ。知り合いか?」
「あんまり知らない人だよ。けど、これから知り合いになるかも」
伊守の答えは要領を得ない。「どういうことだ?」と問い返すと、伊守は悪戯を思いついた子供のような笑みを浮かべた。
「どんな人だと思う? その副島さんって人」
「いや、俺も知らない人だから、どんな人もなにもないだろ……」
「例えば、幾つくらいとか、男の人とか女の人か。伊野尾ちゃん、電話で喋ったんならそのくらいは分かるんじゃないの?」
俺は思わず黙る。
そこへ、丁度店員が注文を聞きに来た。伊守はミックスジュースを、俺は無難にホットの珈琲を頼んだ。去って行く店員(大学生くらいのアルバイトの女の子だ)の後姿を意味もなく見つめながら、俺は暫く考える。
「俺たちよりかは若いんじゃないか? 多分二十代くらいで、男か女かは、ちょっとわからない――」
声から判断する限りでは女性にしては低めの声だが、男性にしては高い、そんな中間みたいな声だったように思える。年齢に関しては、俺たちよりもかなり若いように感じた。
「ふーん。そういう人なんだ」
納得したように呟く伊守。
何が「ふーん」なのか、俺にはよくわからない。
「はい、じゃあ、伊野尾ちゃん。多分その人が、俺の新しい担当になる副島ちゃんという人です。はい、拍手拍手」
ぱちぱち、と手を打ち始める伊守。
遠くで雷の音が響いた。
窓の外を見ると、晴れていた空はいつの間にか曇天になり、ぽつぽつと雨の雫を降らせている。やがて、まばらに降っていた雨粒は力を増し、強雨になった。