更生の旅路
紅く、
機内の窓から見下ろす街は、万華鏡のように煌めいていた。
そのさまは、蠱惑的だ。
十年前に起こった災害――〈大崩落〉以来、"この街"ではいかなる法則も意味を持たなくなった。自然現象における法則も、物理法則も、人間の道徳や理性に関わるものも、とにかく、〈あたりまえ〉が機能しなくなってしまったのだ。万人共通の認識である〈あたりまえ〉が崩れただけで、かつてこの地にあった〈日本〉という国家は崩壊した。
この場所は僕の故郷では、もっぱら〈CLQ_1921〉という名で呼ばれていたが、ここではあえて〈"ロスト・エルサレム"〉と呼ぼう。"この街"に希望を求めて、奇跡を求めて集まる人々は、皆、〈"ロスト・エルサレム"〉という呼称を使っている。ならば、僕もそれにあやかるべきだ。誰が最初にそう言いだしたのかはわからないが、〈
〈"ロスト・エルサレム"〉に近づくにつれて、空は青から赤に染まっていく。
なぜ、〈"ロスト・エルサレム"〉の空が赤いのかについて、まだ詳しいことは分かっていない。〈"ロスト・エルサレム"〉のことは、ほとんどわかっていないのだ。赤い空がどういった原理で罅割れたように見えるのだろうか――そこまで考えて、僕は思考を停止させた。
なんの法則も機能しなくなってしまった街で、常識を振りかざすのは馬鹿げている。それこそ、立て板に水だ。
聞くところによると――"この街"では何でも起こる。奇跡でも、喜劇でも、悲劇でも、人々が願えば文字通り何でもだ。そんな
機内に、着陸を告げるアナウンスが流れる。シートベルトの着用を促すランプが点灯する。数々の法則が意味を持たなくなった街でも、シートベルトの安全性は保障されているのだな、なんて、どうでもいいことを僕は考えた。
さて、長いフライトだった。
いよいよ、〈"ロスト・エルサレム"〉にたどり着いたのだという事実に若干の高揚感を覚える。だが、呼吸は深く、思考は広く。浮足立っていた自分の理性を落ち着かせる。
僕には、やらなければならないことがあった。
是が非でも、"この街"でやり遂げなければならないことが――。
ふいに、誰かに話しかけられたような気がした。
周囲を見渡すが、声をかけてくるような相手はいなかった。そんなに小さな飛行機ではないのに、機内にいる乗客は少ない。僕以外にはほんの、二、三人だ。座席数は一〇〇席以上あるはずの飛行機で、乗客五人未満というのは、航空会社の心配をしてしまいたくはなるが、〈"ロスト・エルサレム"〉が顕現した十年前ならいざ知らず、最近は〈"ロスト・エルサレム"〉に向かおうなんていう人間の方が少数派なのだ。
夢やら成功やら金やらを追って、未知の世界に飛び込んでいく人間はごくごく少ない。
現代は、ゴールドラッシュが流行るような時代ではないのだ。
夢や希望という前に、目の前の現実が第一。
けれど、それにあてはまらないような人間もいる。
この、僕のように。
「空耳か……?」
僕は曖昧な頭で、窓の外を見やる。
そして眼下には、硝子のように煌めく街。
美しい、と思う。
同時に、その美しさで獲物をからめとってしまう魔物の住む巣のようだ、とも。
しばらく街に見入ってから、視線を上げる。
翼を生やして、空を飛ぶ少女が見えた、気がした。
その少女は優しく僕に微笑みかける。
天使かと思った。
しかし、そんなもの現実には存在しない。
瞬きをするくらいの微かな時間。
けれど、僕にはそれが永遠に等しい時間にも感じられた。
僕がもっと少女をよく見ようと身を乗り出す頃には、少女の姿は消えていた。
いや、はじめからそんな少女なんて存在しなかったのだ。
「…………」
幻覚を見てしまった……長時間のフライトで、疲れているのだろうか。
僕は、シートに背中をもたれさせて、深くため息をついた。
諸事情により、天涯孤独の身となった僕は、住んでいた家を売り払い、両親の残してくれたわずかな遺産をすべて使ってここまでやってきた。今更、後戻りなどできるはずがない状況なのだ。とにかく、〈"ロスト・エルサレム"〉へ――そこから先は何とかなるだろう。否、なるようにしかならない。
泊まるホテルも決めていなければ行く当てもないこの旅は、傷心旅行に近い。だが、同時に僕の運命をかけた重いのか軽いのかよく分からない旅路だ。けれど、これが僕が僕であるための更生のはじまりなのだと信じて――。