はじめの第一歩
姉さん、お元気ですか?
僕は色々大変なことになっています――。
××××
「は?」
僕は、思わず目の前の女性に対してそう呟いていた。いや、尋ね返すにしてもかなり不躾だ。しかも、ここは〈"ロスト・エルサレム"空港〉の税関である。これでは、国に帰れと叩きだされても文句は言えまい。
だが、僕の目の前の女性入国審査官は嫌な顔一つせず、ゆっくりと英語で同じ言葉を繰り返してくれた。こちらが、英語が分からないと思ったのだろうか。〈"ロスト・エルサレム"〉は公用語が英語だというのは調査済みだったので、僕が理解できないのはそこではない。
「こちらの書類にサインをお願いします」
「いや、それは分かるのですが、この文面は――」
僕は開いた口が塞がらなくなりながらも訊く。入国審査官は、相変わらずのポーカーフェイスで「サインしていただけないなら、入国は許可できません」と告げた。
早朝ということもあってか、空港の税関に順番待ちの列はなかったので、僕がモタモタしていても苦情の声は出ないだろう。入国審査官は、ただただ機械的に――いや、本当にこのひとがロボットか何かだとしても僕は驚かない――僕に書類を突きつける。
〈"ロスト・エルサレム"〉は、正式な国として認められていないものの、入国審査は一応ある。入国の目的や滞在先、滞在期間を訊くところまでは普通の入国検査と同じだった。まぁ、僕の場合、滞在先も滞在期間も決まっていなかったのだが――その辺りは、決まっていない旨を説明するとすんなりパスできた。入ってくる人間をとりあえず管理するために存在する審査のようなので、そんなに厳しくはないようだ。
だが――その直後、入国審査官がサインを求めてきたのは、要約すれば「〈"ロスト・エルサレム"〉に入った後のことは全て自己責任」であることに同意する書類だった。
野垂れ死のうが、怪我をしようが、どうなろうが、自分の責任です、ということが簡潔に書かれた書類には、ご丁寧にも〈"ロスト・エルサレム"最高議会〉議長であるらしいクルスガワ氏と〈"ロスト・エルサレム"総合大学〉名誉教授であるらしいアオザキ氏のサインが印字してある。
こんな誓約書を書かせないといけないほどヤバい街なのだろうか。
逡巡している僕に、入国審査官は追い打ちをかけるように告げる。
「サインしていただけないのでしたら――」
「あ、いや、します……」
ここまできて、書類にサインをしなかったから追い返されたというのはあんまりだ。僕は、備え付けのボールペンで署名をする。書類を確認した入国審査官は、あっさりと僕を通してくれた。
「……ふぅ」
まさか、こんなところで終わりなのかと思った。
気を取りなおして行こうと思ったところで、先ほどの
「旅行者用の仮ナンバーです。それがないと、街の中で何もできませんので無くさないように」
彼女はそれだけ告げると業務に戻って行った。
プラスチックのカードは、まるで病院の受付のカードのような安っぽさだった。そこに、九ケタのIDらしき番号が印字されている。裏を見ると、発行された日付が印字されていて、隅の方に小さくアオザキ機構とあった。
僕は、財布にカードをしまって歩き出す。
空港のエントランスには人がまばらだった。
着いたばかりの観光客なのか、それとも旅行から帰ってきた街の住人なのかはわからないが、ぽつりぽつりと見かける人々は白人、黒人、黄色人種――果ては動物の耳や尻尾を持った亜人までいた。噂には聞いていたが、変容した都市には亜人がいるのだな、と思いながら本土へと続くモノレールに乗る。
モノレールから見る〈"ロスト・エルサレム"〉は、緑の多い美しい港町だった。遠くに見える山々と、広がる青い海。対照的に空は赤いが、それらが総合的に美しいバランスで広がっていた。
正直、これから始まる日々を想うと胸が高鳴って仕方がない。
僕の、なんでもないような、それでいて今までとは違う日常が始まるのだ。
そう思って、本土についたモノレールから降りるべく一歩を踏み出した。