炎の魔女
そのチェーン店は万国共通のファストフード店だった。僕の住んでいた国にもあったし、アゲハさんのアパートの近くにもあった。〈"ロスト・エルサレム"〉にまで店舗を出している話なんて聞いたことがなかったのだけれど、まぁ、そんなことはどうでもいい。
問題は、朝からその店舗の中で大乱闘が起こっていたことである。
見慣れたチェーン店の見慣れた店構えの自動ドアを抜けると、右から左に派手なちゃぶ台返しよろしくテーブルと椅子、そして椅子に座っていた客が吹っ飛んでいった。
「え……」
思わず固まってしまう僕を放って、煙草を咥えたままアゲハさんはずかずかと店の中に足を踏み入れていく。僕は驚いてしまってそれ以上踏み込めない。
そうこうしている間にも、アゲハさんは席を探しているようだった。人がいなくて使えるテーブルを探す、という意味ではない。テーブルとしての形を残していて機能するテーブルを探す、という意味だ。
僕は、そこで起こっていることがあまりにも非現実的でどうしたらいいのかわからなくなっていた。否、起こっていること象自体はいたって簡単だ。チンピラ男と少女が喧嘩をしている。ただそれだけだ。
が――。
「な、なにしやがるこの
いかにもチンピラ然とした粋がった男が怒鳴る。が、その声はところどころ裏返っているし、震えている。
男の目の前に仁王立ちになるのは小柄な少女だ。少女は悪魔のように残虐な笑みを浮かべて男を威嚇している。結われた長いみつあみが、二股の悪魔の尻尾のようだ。
「はっ! あたしに意見するあんたはいったい誰なんだよ? 自分が正しい神父様気取りかい? 今すぐやめないとお祈りやお小言が飛んでくるのかよ? そりゃあ怖ぇ! 怖すぎて夜眠れねーよ! ちゃんとベッドの下やクローゼットの中を確認してからじゃねーと寝れねーな!」
ぎゃはははははははははははは、と哄笑する少女。
少女と比べてしまうと、粋がった男はチンピラ
彼女がパチンと右手の指を鳴らすと、踏みつけられた男が、ぼっ、と炎に包まれて燃え上がった。悲鳴と、
チンピラ少女が圧倒的に有利だった。
僕はそんな乱闘を蚊帳の外から見つめているだけだった。関わり合いになんて絶対になりたくない。
だが、短いスカートをはためかせて、炎に包まれた男の局部に何度も蹴りを入れながら、チンピラ少女が振り返る。そして、十年来の友人に会ったかのように親しげに、アゲハさんに向けて右手をあげた。
「よぉ、アゲハ! あたしの分も注文してきてくれよ。ロイヤルエッグチーズバーガーセットな!」
「おお。あんまひらひらした短いの履いて大暴れすると、見えるぞ」
アゲハさんは右手をあげて少女に挨拶を返す。
関わり合いになりたくない人間と、連れがまさかの知り合いだった。
アゲハさんに指摘されたスカート丈を全く気にする素振りなく、チンピラ少女は嬉々として粋がった男を蹴り続ける。
「五秒! 五秒で片す! あと、こーゆーのは見えそうで見えねーようにしてんだよ!」
すべての決着がついたのは、五分後だった。
僕は人気のなくなった店の中央にテーブルをいくつもくっつけて陣取っていた。卓を囲むのは、僕、アゲハさん、大乱闘に勝利したチンピラ少女。ロイヤルエッグチーズバーガーセットが人数に合わない五人分も並んでいるが、これについて尋ねるとチンピラ少女に「あたしは人の三倍食うんだよ」と言われてしまった。しかし、それにしては細すぎるくらい細い。
アゲハさんがバーガーを咀嚼しながら、チンピラ少女に言った。
「何が五秒だよ。五分もかかってるじゃねぇか」
少女は少しむっとした表情を浮かべる。
「それはちゃんと焼き方にこだわってたからだろーが! 最期くらい好きな焼き方で逝かせてやってもいーだろ⁉」
「ばかかお前。全員、全身Ⅲ度の火傷で病院送りだろ。一人も死んでねぇぞ」
そんな会話をしながら、アゲハさんと少女はロイヤルエッグチーズバーガーにかぶりつく。僕はとてもではないが食事をする気にはなれなかった。まだ、嗅ぎなれない臭いが周囲に漂っている。
「そういえば、おめー、誰?」
少女が今、気付いたという風に僕に訊く。
答えたのは、アゲハさんだ。
「昨日、クーロが確保した遭難者十五人目」
「キスクです」
僕は二人の会話に口を挟む。
少女が眉をひそめる。
「遭難者十五人目?」
「キスクです」
「そう、遭難者十五人目」
アゲハさんは、うんうん、と頷いた。
僕は自分の名前が〈遭難者十五人目〉ではないことを訴えるが、少女は聞いちゃいなかった。彼女は何かを思い出したような
「あー! 遭難者十五人目か! おめーのせいであたし、今週のノルマびりっけつだったんだぜ⁉ なんか落とし前つけろよな遭難者十五人目!」
「遭難者十五人目じゃなくてキスクです! そして貴女の名前は何ですか⁉」
少女の叫びに対抗した僕の大声が店内に響く。
少女は、にたり、と笑ってから、右手で前髪をかき上げる仕草をする。
「あたしは……味方だと決まっていない相手に名乗る名は持ち合わせてねーんだぜ……」
――名前を覚えないことといい、言葉の選び方といい、アゲハさんと同じタイプ、似たセンスを持つひとだ。中二病でつかみどころのわからないひとだった。
バーガーを食べ終えたアゲハさんが、少女を指さして言う。
「こいつはタクト。なんかちっちぇえけど、一応――なんだ、その、お――じゃなかった、〈魔術師〉だ」
「誰がちっちぇえって⁉ おめーがでかくなりすぎたんだろーが!」
チンピラ少女ことタクトが机の下でアゲハさんの足を思いきり踏む。アゲハさんが「ぎにゃ―――――――――――!」と叫び声をあげた。
「あんなにちっちゃかったくせによー! 今やこんなにでかくなりやがってよー! ったく、甥っ子を見る叔母さんの気分だぜ、あたしはよー!」
そんな馬鹿みたいなやりとりをしながらも、ばくばくと朝食を胃に収めていく二人。
……僕は、この二人の関係は何だろうと考えていた。兄妹には見える。姉弟には見えない。血縁者かもしれないし、他人かもしれない。恋人には到底見えなかった。
「それ、食わねーの? えーと、遭難者十五人目だっけ?」
三人前のロイヤルエッグチーズバーガーセットを食べ終えたタクトが、全く手を付けられていない僕のトレィを指さした。僕は無理やり作った笑顔を引きつらせながら頷く。
「ど、どうぞ……」
……名前についてはもう何も言うまい。……言うだけ無駄だ。泥沼で藪蛇だ。
「やっぱサイコーだよな、エグチ! 安いし、マズいし、身体にわりーし!」
タクトが嬉々として言う。
……そんな嫌な三拍子が揃っているもの、食べるなよ。
「あ、タクト。お前、俺に借りてる金返せよ!」
思い出したかのようにアゲハさんが叫んだ。
タクトは全く悪びれる様子もなく、さらりと告げる。
「嫌だ。だって今、あたし金持ってねぇもん」
「は⁉ え、じゃあ、今食ってるロイヤルエグチ代、立て替えた分は⁉」
「図体はでけーくせにちっちぇーこと言うなよ。次の給料で返すぜ」
「そう言って溜まった借金の額覚えてんのか⁉ 五〇ドルや一〇〇ドルじゃねぇんだぞ⁉ 絶対返す気ないやつだろ!」
「知らねーよ! おめーが勝手に立て替えてんだろ⁉」
タクトの逆ギレが不条理すぎる……! 子供の喧嘩よりレベルが低かった。恐ろしくレベルが低い次元での戦いすぎて、面でなく点の戦いだ。
「お前の次の給料は一体いつなんだよ⁉ 次の給料で返す、の言葉を俺が何度信じたと思ってんだ⁉ ウチは割かし手取りの良い事務所だろうが! 何やってたらそんなに金がなくなるんだよ、――つうか、俺にたかるな! 今度から
「何やってって……ソシャゲの課金? ピックアップガチャが全然出ねーんだよ。おかしくね? ピックアップなのに出ねーって、どういうことだよ? 〇.〇〇四パーセントの確率で出るんじゃねぇの?」
――その確率は、もはや出ないのと同義だと僕は思う。
アゲハさんは、椅子からゆらりと立ち上がると、トレィの乗ったテーブルに足をだんっ、と置いた。威嚇するように背中を丸めた姿勢で、じっとタクトを睨む。
「つまり――返す気がねえな? おい、ここで刀の錆にしてやろうか」
「あ? おめー、アゲハのくせに生意気だぞ?」
タクトも、アゲハさんを睨み返す。
二人の視線が合わさったところで火花が散りそうだった。
「あたしがたかってやらないと、おめー、金の使い方をいつまで経っても覚えねーだろ? 無駄に煙草代に消えるところを、あたしが課金代に使ってやってんだから、べつにいーだろーがよ! いっちょ前に〈
「なんだその理屈は! ぜんぜんよくねぇんだよ! お前にたかられてるせいで、俺の家計簿は赤字なんだぞ⁉」
「あ? おめー、家計簿とかつけてんの? ぎゃはははははははは! 男のくせに女々しい野郎だぜ! なぁ、聞いたか? こいつ、家計簿つけてやがるんだってよ。ぎゃはははははは、あー、似合わねー!」
タクトは僕に同意を求めてくるが、この二人の喧嘩に巻き込まれると今度こそ命はないと思い、必死に視線を逸らす。だが、タクトとアゲハさんの鋭い視線(二人そろって目つきが悪い、とも言う)に何も言わないわけにはいきそうにない。
悩んだ結果、僕は二人の会話に出てきた耳なじみのない単語の意味を質問することで危機を回避することにした。とどのつまり、誤魔化したのだ。
「えーっと……〈
僕を睨んでいた二人が、一斉に虚を突かれた表情になる。
「……お前、"この街"の〈
アゲハさんがぽかんとしながら僕の顔を見ている。しかし、タクトの方は何かに気づいたようにぎりっ、と目を細めた。
「ちっ……誤魔化しやがったか……」
「え、あ、そうにゃのか?」
「い、いえいえいえいえいえ!」
その事実にアゲハさんが気づく前に、うまく丸め込む。
「聞きなれない言葉だったので!」
「……ああ、お前、〈外〉から来たんなら知らねぇかもな」
アゲハさんはうまく話に乗ってくれた。タクトは解せぬという表情を浮かべていたが、まぁいい。アゲハさんがテーブルから足を下ろし、椅子に座りなおす。
「〈
そこまで言って、アゲハさんは口の中にポテトを放り込む。
「"この街"ではマトモに動いてる組織の方が少ねぇんだよ。警察も行政もなんもかんも、カオスっつぅか混沌としてるっつぅか、ダークっつぅか闇っつぅか。町医者に飛び込むと内臓売られるしな。本当に、最低で最悪の場所だ」
意味が二重になっているが、指摘してよいのか悪いのかが分からなかったのでスルーする。
彼は、ポケットから煙草を取り出すと、ライターで火をつけた。ゴールデンバットの紫煙を吐き出しながら続ける。
「そんな最低最悪の〈"ロスト・エルサレム(この街)"〉の唯一にして無二の希望の砦が〈
〈異能〉というのは、恐らく神経伝達物質神経毒作用異常症――LAA異常症のことだ。僕のいた故郷ではそう呼ばれていた。脳の受容体が変化したため、精神のみならず身体にも起こる変化のことで、原因不明、治療不可能な難病だ。僕は医学には詳しくないが、LAA異常症患者にはまるで魔法のような現象を引き起こすようになった事例がたくさんあるそうだ。
〈外〉ではLAA異常症を発症した患者は、まとめて療養所に入院させてしまうが、〈"ロスト・エルサレム"〉に限ってはそうではない。この〈"ロスト・エルサレム"〉ではLAA異常症は〈異能〉と呼ばれ、重宝されているらしいのだ。この、最低最悪の街を生き抜く能力として、定着している。
「アゲハさんと、タクトも、その、〈
僕はおずおずと、息をのむ。
二人が顔を見合わせた。一瞬のアイコンタクトの後、揃って勢いよくテーブルを叩く。
「じゃなきゃ男なんか家に泊めるかよ!」
「じゃなきゃ今おめーと一緒になんかいねーよ!」
ものすごい逆ギレ具合だった。
普通、一般住民を守るといえば
「まぁ、〈
ちりん、とアゲハさんの髪を結いあげている紐についた鈴が鳴る。
言葉を引き継いだのはタクトだった。
「それなりに稼ぎはあるし、それなりに働いてるし、それなりに人の役には立ってるし。働きすぎはよくねーからな! それなりにテキトーに、やっつけ仕事辺りがちょうどいーんだよ」
……そういう、ものだろうか。
僕に親しみのある表現で例えてみると、こういうことだろうか。
例えば、同じ実力を持ったピアノ奏者が二人いたとする。
その片方は常に一〇〇パーセントの力を出し切り、完璧な演奏をするが、もう一人は常に八〇パーセントの力で余裕のある演奏をする。この二人に優劣をつけなければならない場合、どちらが評価されやすいだろうか?
――答えは後者。
一〇〇パーセントの力を出し切る、緊張の糸がぴんと張った奏者は失敗したときのリスクが高いからだ。余裕をもった奏者の方が、聞き手にとって安心感もあり安定感もある。
恐らくは、それに近い話だろう。
――ヤトウジくんは、緊張しすぎる癖があるね――。
一瞬、過去の記憶がよみがえる。
それと共に、軋むような頭痛がした。
思わず、頭を押さえる。
――君の演奏は機械のようだ。この曲からは、君の感情が聞こえてこない――。
「――――ッ――!」
「どーした⁉」
「頭、いてぇのか?」
アゲハさんとタクトは、口と目つきは悪いがなんだかんだ言って極悪人ではないらしく、僕に対して気遣いを見せた。
が、僕は記憶を追い払うように彼らから距離を取る。物理的なそれではなく、心理的な。
「いえ、だ、大丈夫です……」
目をつむっているはずなのに、目の前がチカチカ点滅する。
「病院……医者呼ぶか?」
「あたしもおめーもマトモな医者に知り合いいねーだろ。唯一の知り合いは闇医者だけだろ……。呼ぶんなら呼ぶけど、おめー、あいつ苦手じゃなかったか?」
「あの変態闇医者か⁉ ……呼ぶんなら俺、帰るぞ……」
二人の会話の内容も僕の頭には入ってこない。
嫌な思い出を忘れようと、記憶の中から譜面を引っ張り出し、その旋律を脳内で奏でる。一分程度のフレーズを八四〇回繰り返す奇妙なその曲は、作曲者曰く〈大いなる静寂の中で真剣に身動きしないことを、あらかじめ心構えしておくべきであろう〉とされている。曲名からしても、『ヴェクサシオン』――「嫌がらせ」や「癪の種」を意味する単語だ。一説には「自尊心を傷つけるもの」という意味もあるらしい。
僕なりの精神安定剤のようなそれが功を奏したのか、徐々に嫌な感情は消えていった。
「とりあえず、店、出るか」
アゲハさんに肩を借りて、立ち上がり、店を出た。
通りは相変わらず人が多かった。見上げると、赤く
不思議な街だ。
なにかとても危ういバランスで成り立っているような、そんな世界だ。ひとつでも間違ってしまえば、途端に崩れ落ちる硝子のような、僕がここで小石に
「じゃあ、僕は、これで……」
痛む頭と重い体を引きずって、歩き出す。
吸い終わった煙草を堂々と道に投げ捨てながら、アゲハさんが僕を引き留めた。
「どっか、行く当てはあるのか?」
彼は粗野だが、意外と情に厚いひとのようだった。とっつきやすいのかとっつきにくいのかはよくわからないが、悪いひとではない。
僕は、彼の問いに対してはっきり答える。
「行く当てはないですが……目的はあります」
そう、目的はあった。
確固たる目的が、確かに僕にはあった。
アゲハさんは「じゃあ、しょうがねぇか」と小さく呟いてから、僕に背を向けて歩き出した。数歩進んでから、立ち止まって振り返る。
「死ぬなよ、後味悪いから」
「機会があったらまた会おうぜー! ねーと思うけど!」
タクトもそんなことを言いながら、僕にひらひらと手を振る。
僕も右手でそれに答えた。
僕らは、それぞれ反対方向に歩き出す。
タクトの言ったように、僕らがまた出会うことはないだろう。
僕は、この〈"ロスト・エルサレム"〉で、一人で生きていかなければならないのだから。たった一人で――。
「ぐっもーにん、えっぶりわん! アゲハさん、タクトちゃん、おはようございまっす!」
馬鹿みたいに能天気な声がしたその瞬間、僕は何かにべしゃり、と踏みつぶされた。
……ええと、あり得ないような事態だが、冷静に分析してみよう。いや、分析するもなにもない。ビルの上から女が降ってきて、その下敷きになっただけだ。ビルの上から? 投身自殺か何かか? いや、この女、ビルの壁を歩いてたぞ……? 壁を歩く? なんだそれは、靴に電磁石でも入ってるのか? リニアモーターカーでもあるまいし、非常識すぎるだろう。
「ばか女! 踏んでる、踏んでる!」
アゲハさんが慌てて言った。
能天気な女の声が、からからと笑う。
「わたしが歩く場所に寝ころんでるだけじゃないんですか? 悪いとしたら、わたしが歩く場所に寝ころんでるこのひとが悪いと思いまっす! あいあむ、じゃすてぃす!」
まったく悪びれていない風に、高らかに宣言する女。
――この頭の悪そうな声には、訊き覚えがあるような気がする……。
「新世界の神かお前は。そんなにボリュームのあるスカート履いて人を踏んづけると、踏んづけられている奴から見えるだろ……」
控えめに、アゲハさんは僕の背中に乗ったままの女に注意をしているようだったが、一向に女は動く素振りを見せない。その証拠に、僕には女の全体重が乗っている。はっきり言って、重い。
アゲハさんの言葉の揚げ足を取るように、タクトが言う。
「おめー、あたしにも同じようなこと言ったよなー。まさか、おめー、そんなに見てーの? ナニか? 女のぱんつに飢えてんのか?」
「飢えてねぇし! 誰がお前やばか女の見て喜ぶんだよ、阿呆が!」
……あたまのわるい会話が聞こえてくる。
もはや、どこからツッコミを入れていいのか分からない。
「見たいなら、それ相応の見返りをくださいよー、もー。セクハラですよ? アゲハさん?」
さも当然という風に言う女。
アゲハさんの呆れた声。
「――ばか女、キスクからお前のスカートの中、丸見えだぞ……」
「? キスクって何ですか?」
その言葉の意味が全く分からないのか、女が尋ねた。
アゲハさんは、大きなため息をひとつついてから、吠える。
「……申し送りを聞いちゃいなかったのか、お前は……。昨日、お前が保護した遭難者十五人目だろ! 今週のノルマを一人でかっ飛ばしてクリアしやがったお前が確保した最後の一人だよ! 遭難者保護人数でお前はいつもぶっちぎりで一番手! 俺はいつも二番手じゃねぇか! ちなみに、びりっけつはタクト!」
「それはー、アゲハさんの努力が足りないといいますかー」
「……そんなことは今、どうでもいい。そいつの名前がキスク=ヤトウジだろ! 俺は確認取ったぞ⁉ お前も、パスポートか何か見て氏名確認しただろうが!」
アゲハさんの口調は、今にも相手を張り倒しそうな勢いだ。が、対する女の方はのんびりとした、マイペースな口調を崩さない。
「はぁ。それで、その遭難者十五人目さんがどうかしたんです?」
「お前が今、踏んでるやつ」
「はうわぁっ!」
女が、スカートを押さえて飛び上がる。
やっと僕の上から退いた。それなりに、否、かなり重かった。
僕は、うつ伏せだった姿勢から起き上がる。そして、トレンチコートについた埃をはらった。
改めて、女と向き合う。
ボリュームのあるスカートに、ロングマフラー。赤い眼鏡の奥の瞳はぱっちりと大きい。忘れるはずもない――あの時、僕を助けた女だった。
彼女は「むむむむむむむむむむむむ……!」と奇妙な唸り声をあげながら僕を威嚇するようにじりじりとこっちを窺っている。眉を寄せたその表情は、控えめに言って可愛らしいが、どこかあざとくも見えた。
「見ましたね……⁉ 乙女の秘密を見ましたね⁉」
「な、なんのことやら……?」
僕は女から視線を逸らしながら言う。
「何色でした⁉」
「色とか見えなかったぞ……」
「どんな形でした⁉」
「形も見えなかったぞ……」
僕が女を見上げていたのは、女が落ちてくるほんの一瞬だ。色や形どころか、何も見えなかった。本当だ。誓ってもいい。
だが、女は僕が嘘をついていると思ったらしい。
「何色かは分からなかったし、形も分からなかったけれど、見たのは見たんですねっ⁉ はうわぁっ! 乙女の純潔が汚されました、どうしてくれるんですかー、もう! 今日のぱんつは、見せぱんじゃないのにっ!」
どうしろもこうしろも、その前に乙女とか言う
「むむむむむむむむむむむむー!」と唸る女は、怒っていることをアピールしているようだ。
純潔が汚されたというが、ならばどうして欲しいというのだろうか? 責任を取って結婚しろとか言いだしそうだが、なんで踏まれたくらいでそんな大事に発展しなければならないのだ。意味が分からない。
しかし、彼女は一瞬で笑顔になり、両手を合わせる。ぱんっ、と乾いた音がする。
「マカロンにチョコレート、イチゴのショートケーキ、マドレーヌにマシュマロ、フルーツパフェ、フィナンシェ、ドーナツ、アイスクリーム、アイシングクッキー、シュークリーム、カップケーキ、ラスク、カルメ焼き、パンケーキ――――」
怒涛の勢いで女がスイーツの名前をつらつらと言い始めた。
一体、何の詠唱だ⁉ スイーツの神でも召喚するのか⁉
僕は、嫌な予感がして一歩後退る。
「スイーツを朝ご飯がわりに奢ってくれるということで手打ちにしましょう! 昨日助けたお礼も含むということで! いいですよね、遭難者十五人目ことキスクさん!」
紅い眼鏡のフレーム越しの瞳は、もう僕を踏んづけていたことを忘れているように爽やかだった。この女に歯向かうのは、それこそ立て板に水、糠に釘、猫に小判、豚に真珠だろう。――最後のふたつは確実に間違いだったが、この際そんなことはどうでもいい。
「わたしは、クーロです! クーロ=ソリュウインといいます! あなたは"この街"に何をしに来たんですかっ⁉」
彼女――クーロは僕に微笑みかける。
何故だか、その笑みはすごく懐かしく感じられた。