連天吼

目覚めの喧噪

 都市の市場の雑踏は、第八都市候補・ニライカナイも神の末裔を名乗る第一都市・極光皇国もさほど変わらなかった。否、騒がしさならニライカナイの方が少し上か。ただ、極光皇国ではニライカナイのどこにでも平凡に転がっている暴力や、犯罪の影が薄い。市場の果物に混じって、人間やその内臓が売られていないだけでもいくらかマシだ。

 七都市大陸の各都市から商売にやってきた商人たちの陽気な声が響く中、ステラナジカは目を覚ました。薄いダブルベッドの上の同じく薄い布団を跳ねのけて、飛び起きる。

 昨晩、彼が仕事仲間と共に泊まった安宿は市場にある酒場の二階にあった。酒場で騒いでいる男女の声がうるさかったおかげで眠ったのは朝方だった所為か、目を覚ますと姉のエルシデと妹のパタ――極光皇国に残る神話にちなんでそう呼ばれる双子の太陽は空高くに登っていた。

 同室に宿泊していた仕事仲間の姿は部屋にはない。

 ステラナジカは一瞬、宿代を踏み倒されたのかと思ってびくりとする。が、薄い壁を挟んで共用のシャワー室がある廊下から水音が響いてきたのでほっとする。昨晩、安宿に泊まった客はステラナジカと仲間たちだけだ。ならば、シャワーを浴びているのは仲間のはず。消去法で考えて、女の方の仲間だ。


「……あ」


 ふと、自分の寝ていた簡素なダブルベッドの上を見る。もう一枚の薄い毛布と共に、女性用の黒い下着が脱ぎ捨ててあった。

 不自然に目を逸らしつつも、心の中で朝からラッキーだと思うステラナジカだった。


「ええっと……あ、そうだ、僕も支度をしなきゃ」


 仕切り直すようにそう呟くと、いそいそと寝間着からシャツとズボンといういつもの格好に着替える。腰に二本の双剣を吊るすのも勿論忘れない。シャワーを浴びていた女の仲間が部屋に戻ってきたのは、ステラナジカが支度を終えたすぐ後だった。

 ガチャリ、と部屋の扉を開ける音でステラナジカは振り返る。

 そこには、男物のスーツ姿の少女が立っていた。丈の短いスーツの、大きく開いた腰の部分は白い肌が露出している。そこには、赤黒い紋章のような刺青が入っていた。


「あ、ステラ、おはよう。起きていたんだね」


 溌溂とした笑顔で、少女はステラナジカに微笑みかける。彼女のその屈託のない笑みが、ステラナジカは好きだった。初めて出会った頃から、好きで好きでたまらなかった。


「エリウユ、おはよ。ハルアキラは?」
「あっち」


 もう一人の仲間の名前を出すステラナジカに、少女――エリウユは窓の方を指さして応える。

 ステラナジカが振り返ると、ベランダに続く非常扉が微かに開いていた。漂ってくる紫煙から、朝の喫煙タイムを満喫する仲間の姿がありありと想像できた。


「師匠が煙草を吸っている間は邪魔しない約束だからね。声はかけないほうがいいと思うけれど」


 エリウユは言って、後ろ手でパタンと部屋の扉を閉じた。それから、彼女はゆっくりとステラナジカの方に歩み寄ってくる。思わず、緊張してしまう。


「今回の仕事は楽だったね。極光皇国までの旅費は経費で落ちるし、ぼくとしては本業の合間に副業兼旅行ができた気分でリラックスできたけどな」


 少年のような口調で、歌うように彼女は言葉を紡ぐ。


「そ、そうなんだ……」
「ステラは違うのかい?」


 エリウユの存在がすぐ近くにある。それだけでステラナジカは赤面してしまいそうだ。


「う、うん、ま、まぁね……」


 答えになっていない答えを返す。

 そんなステラナジカを見て、エリウユはおかしそうに微笑んだ。


「ニライカナイに帰ったら、すぐにまた本業だからね」
「本業……」
「うん、本業」


 いつの間にか――エリウユの顔はステラナジカのすぐ近くにあった。耳元に息がかかるくらい接近している。


「エリウユの本業って……しょ、娼婦のことだよね……?」
「うん。ぼくは『蝶の舘』の娼婦だから。ステラも疲れた時は……」


 耳元で囁かれて、ステラナジカはもう限界だった。

 辛抱たまらなかった。


「わ――――――――――――!」


 ステラナジカは思わず叫ぶ。その顔は茹でた海洋生物のように赤い。


「だ、だ、だめだよ! エリウユのことは好きだけど、そういうのは僕にはちょっと早いっていうか……よくわかんないっていうか、がっかりさせちゃうかもしれないから! だから、僕が立派になってからで! せめて、髭とか生えてからにして!」


 自分でも意味不明だと思うことをわめく。

 そんなステラナジカを見て、エリウユはベッドの上に倒れ込んで笑い転げた。


「あははははははは! ちょっとからかっただけなのに。ステラは子供だなぁ!」


 けたけた笑うエリウユと、目をぐるぐる回して赤面しているステラナジカ。

 第三者が見れば、姉弟がじゃれているように見えるだろう。ステラナジカにとって、その見方は当たらずしも遠くはない。生まれた地で生きて行けず、なんとか辿り着いた第八都市・ニライカナイでエリウユと出会ってから、ずっとステラナジカは彼女の精神的弟だった。決して血の繋がりはなくとも、心だけは弟でありたいと願っていた。今もずっと変わらない、おそらくこれから先も変わることがないであろう関係性。


「そんな笑うことないじゃんかぁ……!」


 恥ずかしさが極まって泣きそうになりながら、ステラナジカは嘆く。

 エリウユは目に溜まった涙をぬぐいながら「ごめんごめん」と謝った。むくれた顔のままでいるステラナジカの頭を、よしよしと撫でる。


「そんなことで誤魔化されないよ……頭撫でられて許したら、僕ちょろい奴じゃん……!」
「ステラってちょろいんじゃなかったっけ」
「ぐすっ、違うよぉ……」


 いよいよ鼻声になってきたステラナジカの肩をあやすように抱くエリウユ。

 満足するまで抱きしめてもらってから、ステラナジカはぽつりと呟いた。


「…………許す」
「あはは、ちょろいじゃないか」


 またも笑いそうになるエリウユは、寸前でこらえたようだった。

 二人の会話がひと段落するタイミングを見計らったかのように、ベランダで煙草を吸っていた人物が部屋に舞い戻ってきた。

 黒く、縦に長い三角形のような帽子――ステラナジカが聞いた話では烏帽子というらしい――を被り、七都市大陸ではあまり見かけない民族衣装を着た青年は、煙草のパッケージを袖元にしまいながら気だるそうにしている。今回、極光皇国まで来ることになった仕事を持ちかけてきた事務所兼萬屋の経営者であり、エリウユとステラナジカの師匠的存在であるハルアキラだ。


「どないしたんじゃ、またステラナジカをいじめとったんか」
「師匠! 別にぼくは虐めていたわけじゃないさ。からかっていたんだよ」
「一緒じゃ、あほ。あー、めんどくさいのぅ……剣呑剣呑」


 ハルアキラは緩慢な仕草で備え付けのソファに腰を下ろす。昨晩、三人でチェックインした部屋にはダブルベッドがひとつしかなかったので、彼はソファで寝たはずだ。小柄な自分よりも幾分か背が高いハルアキラがソファを使うのは窮屈だろうなと思いつつ、男にベッドを譲ってやる義理はないと非情に徹したステラナジカだった。


「首痛いわー……寝違えとるな。(じじい)、おじいちゃんじゃから、寝違えると死ぬぞ……」
「師匠はまだ若いじゃないか」


 エリウユが形の良い胸を張って言う。

 ステラナジカもうんうんと頷いた。

 外見から察する年齢はステラナジカたちよりも少し上だろうというのに、ハルアキラは妙に枯れている。落ち着き払った言動がそう感じさせるのだろうが、「爺」という一人称はいかがなものか。本当に老人と呼ばれる年齢になったらどうするのだろうか。


「爺の年齢に関することは企業秘密じゃ!」


 ぴしゃり、と打ち切るようにハルアキラ。それから急に話題を変えた。


「それよりも、割と大変かもしれんぞ」


 ステラナジカとエリウユは顔を見合わせる。

 ハルアキラが見せたのは、煙草の箱の代わりに取りだした携帯端末の画面だった。その携帯端末に飛びつくように注目するステラナジカ。


「あ! 携帯端末、また機種が変わってる! いいなー、ラズエリウス社の最新モデルじゃん!」
「……それはええんじゃ……ほれ、ニライカナイに戻るネリヤカナヤ急行のチケット予約サイトじゃ!」


 指摘を軽く流して、ハルアキラは視線で携帯端末を示す。

 ステラナジカとエリウユの目線が、一点に集中する。端末に映されたチケット予約の日付と、満席を示すマークの並んだ座席表を見て言葉を失った。


「年明けちょっと先まで満席じゃんか!」


 ステラナジカは悲鳴を上げる。


「ど、どうするんだい、師匠⁉ ここで足止めをくらうと、今回の仕事赤字だよ!」


 捲し立てるようにエリウユ。


「というか、今回の仕事の依頼主は、極光皇国行きのチケットはくれたくせに、帰りのチケットはよこさなかったのかい!」


 ハルアキラは迷うように「あー」だの「うー」だの呻いた後、申し訳なさそうに「ない」と答えた。

 悲鳴を超越した雄叫びに似た何かが部屋に響く。

 ステラナジカは思わずその場に崩れ落ちた。


「くそっ! あの成金貴族め……! 変なところだけケチりやがって……! 仕事中もエリウユを変な目で見てくるし、僕にまで気持ち悪い視線送ってくるし……! 最悪だよ、ツイてない、せっかくいいこともあると思ったのに……!」


 例えば、エリウユの下着とか、と心の中で呟く。

 そこでステラナジカは、初めて床についた自分の左手薬指に嵌っているいかにも高価そうな指輪に気づいた。


(……あれ、これ、どうしたんだっけ……?)


 不鮮明な昨晩の記憶を手繰り寄せる。

 記憶のパズルのピースが完全に揃う前に、エリウユの声で現実に引き戻される。


「ステラ、『くそっ!』だなんて口が悪いよ。ステラは可愛いんだから、もっと可愛い言葉遣いをしなよ」


 からかうような微笑みで言う。

 むっとしてステラナジカは返す。


「僕、男だよ!」
「仕事の依頼主は、多分ステラのことを女の子だと思っていたよ?」
「うわぁ……」


 思わず奇妙な声を上げてしまうステラナジカ。

 小柄で整った顔の造りをしているステラナジカは、少女に間違えられることが頻繁にある。「嫌なら長い髪を切ればいいのに」と言われることもあるが、髪は願掛けで伸ばしているのだから、切ってしまっては逆に男が廃ると彼は考えていた。いつだったか、「エリウユとステラナジカでユニットとして売り出さないか」という妖しい誘いまで受けたことがあるが、なんのユニットなのか訊く前に秒で断った経験がある。


「とにかく、じゃ」


 パンパン、と手を打つハルアキラ。


「なんとかしてチケットを入手せんと、爺らはここで飢え死にじゃぞ」


 そんなの――まっぴら御免だった。

 少なくとも、ステラナジカはそうだった。

 やはり、死ぬときは温かい布団の中で、好きな人に見守られていたい。

 そんな――死線を潜り抜ける紋章術式師としては甘いくらいの幻想(ユメ)を抱きながら、ステラナジカは仕事をこなしてきた。

 今までハルアキラの仕事を手伝った回数は、案件の大小を考えなければ全部で七九八回。

 そのうち、死にかけた回数は七〇七回。

 本気で死んだと思ったけれど、首の皮一枚繋がっていたのが四五回。

 なんとか無事に帰ってきたのはたった四六回。

 何度も思うのは、自分は運がいいから生き残っているということだけだった。

 その運が尽きるのは、意外にも一秒後かもしれないのだ。

激ちょろい主人公・ステラナジカ。『こことわ』のキスクの斜に構えた感じの一人称とは違って、 『ルルブレ』のステラはなんていうか幼いですね。あと、この子はアホの子だと思います。笑